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浮き沈みの激しい日本の音楽シーンで、20年以上活動し続けているシンガーソングライターSION。そして、そんな彼を敬愛する森重樹一。彼のバンドであるジギーも来年デビュー20周年を迎える。そんな二人がコラボレーション作品「場所」を完成させたというので、作品についてはもちろん、彼らを20年も歌わせ続けているものが何なのかにも触れてみることにした。



17歳の時に「これで生きるんだ」って
決めちゃったんだよね



−お二人ともキャリアは20年にもなるわけですが、そもそも歌い始めたきっかけはどういうものだったのですか。

SION:キャーキャー言われたかったから(笑)。

−初期衝動というか、誰かに憧れてとかではないんですか。

SION:俺の場合はそういうのじゃなかったんですよ。中学校の時のクラスにギターを持ってるヤツが一人いて、そいつが歌本のフォークソングみたいなのを弾いているのが「なんか、いい感じじゃない?」と思ってやり始めただけで…あとはキャーキャー言われたかった(笑)。

森重樹一(以下、森重):俺は小学校の時にテレビの歌番組を観てて、歌手の人達がキャーキャー言われてたから(笑)。

SION:俺に合わせなくていいから、ちゃんと話して(笑)。

森重:(西城)秀樹さんやジュリーさん、フィンガー5とかが好きで、歌手になりたいと思ってたけど、テレビに出ている人はすごく特別な人だと思ってたんですね。でも、4年生の時に友達に誘われてスキー合宿のスクールみたいなものに行ったら、中学生の兄ちゃんがギターを弾きながらフォークソングを歌ってて…かぐや姫とかだったんじゃないかな。それがすごくうまかったんですよ。だから、「普通の中学生でもこれだけのことができるんだ」と思って、テレビには出れないけど、もしかしたら自分もそれぐらいにはなれるかなと思ったんですよね。

−では、実際にやり始めたのはいつ頃になるのですか。

SION:14歳ぐらいの時にギターを始めたんだけど、カバーはあんまりやらなくて、弾けるコードだけでオリジナルを作っちゃったんですよ。バカだからさ、そこで「俺って天才じゃん!」と思ってしまって(笑)、16歳ぐらいから「歌わせてくれ」って言ってライブハウスに出てましたね。

−いきなりオリジナルですか!?

SION:やっぱり恋とかするじゃないですか。そしたら歌が書けるんですよ。それに「○○は嫌だ」とか「こんなことでいいのか?」とか文句をつけるには持って来いの恥ずかし気がない年頃だから、自立もしてないのに世の中のことをどうのこうと言って。

−それでいきなりライブハウスですか。その行動力はすごいですね。

SION:バカなんでしょうね。だから、お客さんにバケツの水をぶっかけられるんですよ。「この坊主は何を言ってるんだ!」って(笑)。

森重:すげぇーな(笑)。俺が歌い始めたのは、中学校に入ったぐらいの時に、それまではプロ野球選手がカッコいいとかだったんだけど、突然、髪の長い外人がカッコ良く見え始めたんですね。それで見よう見マネでやりたくなったんですよ。たまたま家の前のアパートにフォークなんですけど、プロのミュージシャンたちが住んでいて、そこの1階からいつもエレキギターの音が聴こえてきていたから、「ギターを教えてほしいんですけど」って訪ねて行って…それでうちの親とも話したのかな。1回1000円か2000円ぐらいで週イチで教えてもらうようになったんです。

−そうやって自分でやり始めて、プロを意識するようになったのは、いつ頃になるのですか。

SION:俺ね、17歳の時に「これで生きるんだ」って決めちゃったんだよね。「これで食おう」じゃなくて。もうこれしかなかった。他に選択肢がない。だから、しょうがないんだよ。嫌になっても辞めるわけにはいかない。

−そんな決心をさせた理由は何だったのですか。

SION:それだけ自分がすごいと思ったんですよ。どっからきた自信か分からないけど、絶対に自分はすごいって。そこまでバカになれたら人ってのは幸せなもんですよね(笑)。

−19歳で上京されたわけですが、やはりプロになろうとして?

SION:その頃はずっとライブハウスで歌ってて…もうバケツの水をぶっかけられることもなくなってたし。山口県の中だと月4回やるのが限界だったから、東京に行けばもっとできるかなと思って。ただそれだけで行った。

−知り合いとかを訪ねて?

SION:そんなのいませんよ(笑)。

−それもすごい行動力ですね(笑)。上京したらすぐにデモテープを作ってレコード会社回りとかしたのですか。

SION:なかなかそこまで行かないんですよね。まずメシを食わないといけないし…バカな少年はそこを忘れてたんですよ(笑)。だから、ちょっと時間がかかってしまった。山口県の田舎で歌っている時に、日本中をリアカーで回った俺より10なんぼも年上の歌唄いから「ほんとに歌が好きで、ちゃんと歌を信じて真っ直ぐにやっていったら、お前は嫌がるかもしれないけど、10年経ったら食えるんだよ」って言われたことがあって…その時は「何言ってるだ?」と思ってた。まだ16歳ぐらいだったらね。でも、デビューしたのが26歳だったから、おっさんの言ったこともまんざらじゃなかった。

森重:俺の場合は、そんな初志という部分が間違ったところにあったのかもしれない(笑)。当時は日本の音楽シーンの中でロックと呼ばれるものをやっている人が少なかったというか、まだ世の中に認知されていなかったじゃないですか。でも、プロになりたいと思っていたんですよね。甘ちゃんだったから「歌で食える」と思ってたんですよ。さっきSIONさんも言ってたけど、不思議と自信みたいなものだけがあった。何でそんな自信があるのか、その根拠は何なのかも分からない…これは結果論なんですけど、自分の音楽が世の中に出たということは、そこにはしかるべき運命や宿命みたいなものがあったのかもしれないなって。ライブハウスでいい気になって「俺が一番カッコいいんだ!」と思ってやってた時に、そんな俺を観に来ていた同い年の女の子が音楽事務所に所属することになったというんで、「あんた面白いから、私にマネージャーをやらせてほしい」って言ってきたんですよ。だから、すごくラッキーだった。

−森重さんは大学が早稲田じゃないですか。いろいろ就職先があったと思うのですが、音楽の道を選んだというのは、それだけの魅力があったということですよね。

森重:友達とかが「樹一くんには、絶対に才能があるよ」って言ってくれたんですよ。自分でも「俺が一番だ」と思っているところに、他の人もそういうふうに言ってくれたもんだから、その気になってしまって、普通に就職するという選択肢が自分の中になかったんです。バンドがやりたかったし、バンドの中で歌っていたかったし、“バンドをやっている”ということ…スタイルとしても、そこに憧れがあったのかもしれない。

−そして、「マネージャーにしてください」という人との出会いがあって、デビューにつながっていくわけですか。

森重:それまでにバンドのメンバーがいろいろ変わって…当時、ベースをやっていた戸城(憲夫)には、それまでのメンバーとは明らかに違ってクリエイティブなものを感じたんですよ。G.D.フリッカーズというヤツのバンドが好きでよく観に行ってたし、曲も好きだったし。で、彼が「俺、お前と一緒にやりたいから」って俺のバンドに入ったんですけど、そこでバンド内の人間関係が崩れて「俺、辞めるわ」というヤツも出てきて(笑)。そしたら「俺がメンバーを集めるから」って戸城が松尾宗仁と大山正篤を連れて来て、あの4人が揃ったんです。今考えると、そこにはマジックがあったんでしょうね。当時はそれが分からないから4人ともが「俺様のお陰だ」と思ってた(笑)。

−それでも4人のベクトルが同じ方向を向いていたから、デビューしてすぐにブレイクしたんでしょうね。

森重:みんな若いし、自分が自分がって気持ちで前に出て行ってたし、いい意味で「負けてたまるか!」というライバル心があって、煽り合っていたんだと思いますね。

−SIONさんも、そういう人との出会いはありました? 

SION:最初はスマッシュ(フジロックフェスティバルをプロデュースするイベント会社)の日高(正博)さんかな。いろんなレコード会社を回っていた時に、あるレコード会社の人が聴いてくれてたんですよ。その人が制作から宣伝に移るってことで「お前の歌を聴いてやれなくなっちゃったよ。だけど、音楽好きな人を紹介してやるから」って日高さんを紹介してくれたのが一番大きい。それで2年ぐらいレコード会社を回ってたのかな。その後、日高さんと喧嘩しちゃったんだけど、今度は最初のマネージャーというか、事務所の社長だった麻田(浩)さんが「じゃあ、俺がやるよ。ギター持って来い!」って。で、事務所に置いてあったギターを持って車に乗って…「麻田さん、車、ちっちゃいですね」「早く売れてでっかい車に乗ろうぜ」とか言いながらシビックかなんかに乗って夕焼けの中を走っているのが、俺の中にある「ここから何かが始まるんだ」という記憶ですね。


デビューして1年ぐらいは
給料が出なかったんですよ



−音源的には、SIONさんは85年に自主制作で『新宿の片隅で』を発表するのですが、やはり初めての音源はうれしいものがありました?

SION:最初の作品ってのはうれしいよね。変な言い方だけど、当時は「死んでもいいから、どこかアルバムを一枚出してくれないかな?」って気持ちがあったんだよ。でも、デビューしたらしたで調子に乗って「ああじゃない、こうじゃない。この次こそ!」ってなるんだけど(笑)。

森重:確かにそうですよね。自主制作というのが流行し始めてた頃だから、俺も自主制作でもいいから自分達の音楽が残せたらいいなって思ってましたよ。やっぱり親は心配するわけじゃないですか。「音楽で食べれるわけないんだから」って常に言われてたから、その現実を考えつつ、自主制作でもいいから自分が作ったものを形に残したいという気持ちがすごくあった。SIONさんが一人で…バンドじゃないところで、自分の詞で、自分の曲で、自分の声でっていう状況の中でやってきて、アルバムを一枚作ったら死んでもいいと思う気持ちは分かるというか、想像できますね。俺も最初は「一枚でいいから」って思ってましたよ。なのに、もう何枚も作ってるんだけど(笑)。

−流れとしては87年に自主制作でミニアルバム『それゆけR&Rバンド』を発表した後に、1stアルバム『ZIGGY IN WHTH THE TIMES 』でデビューとなるんですよね。

森重:あれは当時のスタイルになるんですかね?

SION:うん。自主制作を出す前から、もうデビューが決まってたからね。インディーズブームの頃だったし、そういうスタイルが流行ってたんだよ。ストーリーみたいなものが決まってたんだって。

森重:当時は『宝島』とかのザブカル雑誌が人気で、ラフィン・ノーズやウィラードや有頂天といったバンドが注目されていたじゃないですか。そういうものがクールだと思っている層がいっぱいいたから、そこに1回投げて、それから鳴り物入りでデビューという図式があったんでしょうね。

−でも、プロデビューしたことには代わりないので、やはり夢が1つ実現したような実感はありました?

森重:デビューしたらいきなり立派なマンションに住めると思ってたんだけど、1年ぐらいは給料が出なかったんですよ。バイトしてるメンバーもいましたしね。だから、お客さんはだんだん増えているのに「あれ?」って(笑)。先行投資ってものがあるってことを知らなかった。デビューして多少はキャーキャー言われるようにもなるじゃないですか。ファンレターとかもいっぱい届いて「デビューするとこんなに来るんだ」とか思ってる反面、「あれ?」って(笑)。だって、初めて武道館をやった時でも、おふくろがタクシー代って1万円くれましたからね(笑)。

SION:涙なしには語れないね(笑)。すごいアンバランス。

森重:だから、みんなが外から見ているほど、中はカッコ良くないんですよ。自分だって自分の力で何とかしたいと思うけど、俺はバイトにも行けなかったから、その1万円を「ありがとう」って受け取りましたよ(笑)。

SION:俺もバイトしてたよ。ライブの日は店を中抜けして行ったりして(笑)。

森重:SIONさんがデビューした後も新宿のアクセサリー屋で働いてるのは知ってたんだけど、そういう体質の人なんだと思ってた。俺はできたばかりの小さい事務所だったけど、SIONさんは大きなところだったじゃないですか。働くのが好きで、店に立ってるんだと思ってましたからね(笑)。

SION:違う、違う(笑)。

森重:分かんないですからね。逆にSIONさんは俺達を見て…

SION:ジャガーだかポルシェだか乗ってるんだろうなって(笑)。

森重:今でも覚えてるんですけど、レッド・ウォーリアーズの木暮(武彦)くんと友達になったんですね。当時、俺は国立に住んでいたんですよ。で、車を持ってなかったから事務所が定期を買ってくれたんです。そしたら、木暮くんが「お前、定期持ってんのかよ! すげぇーな!」「だって、しょうがないじゃん」って(笑)。そこのギャップはすごくあった。

−給料をもらえなくても「やってられるか!」ってならなかったのは、やはり好きなことをやっているという充実感が、そんな不満以上に強くあったわけですか。

森重:そうそうそう。ほんと、それだけですよ。

 
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